運の不思議。東郷平八郎と山本五十六にみる運の良し悪し


 世の中には運がいい人、悪い人といるようです。大きな事件の後には必ず、幸運にも間一髪で助かった人、なんとなく予感があって免れた人、または、わざわざ巻き込まれにきたような人など。
 歴史を紐解いても、奇跡ともいうべき運が働いて勝利した武将や、戦力的には圧倒的であったのにもかかわらず不運で敗戦した者も。まあ、運も実力のうちとも言いますが・・・。

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運が良い人
源頼朝~初戦で敗退し逃げ隠れていたところを、敵方の梶原景時に助けられる。景時以外の武将に発見されていたなら確実に殺されていた。
織田信長~桶狭間の戦い。豪雨のお陰で奇襲に成功。今川義元の首を獲ることができた。

運が悪い人
平将門~合戦で優位に進め勝ち誇って自軍に引き返す途中で風向きが変わり、馬の歩みが乱れたところで、1本の弓矢が額に見事命中。あえなく討死。
内ヶ島氏理~城を乗っ取られた後で、やっとの思いで取り返し、一族がみんな集まって祝っている晩に大地震。一族全滅。戦国武将の中では運の悪さでは優勝候補。

運のよさと悪さを兼ね備えたドラマのような武将
源義経~世界史上、奇跡ともいうべき奇襲成功を二度も三度も成功させる(信長でさえ人生で桶狭間の戦いの一度のみ)。平家を滅ぼした後は、やることなすことすべて裏目に出て平泉へ。

 「運の良さも実力のうち」よくいいますが、「運が良い」人は、事前の情報をちゃんと集めていたとか日頃の修練を怠っていなかったなどの努力の積み重ねがツキを呼び込んでいると思われます。それでも自然災害など人知を超える部分に関してはもう、諦めるしかないのですが・・・。

 さて、今回は、日本海軍の歴代司令長官の東郷平八郎と山本五十六を較べてみたいと思います。この二人はある意味対照的な運命を辿ります。

 東郷平八郎(1848~1934)は、幕末の薩摩藩士から日露戦争でのバルチック艦隊を撃破した第3,4代の連合艦隊司令長官です(1903~1905)。
 かたや山本五十六(1884~1943)は第二次世界大戦の26,27代の連合艦隊司令長官(1939~1943)を勤め上げ戦死しております。
 年の差は36歳もありますが、この二人、日露戦争のバルチック艦隊での戦いで共に参戦しているのです。


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◆運が良い男と呼ばれていた東郷平八郎

 東郷平八郎といえば日露戦争で有名な連合艦隊司令長官ですが、彼をその役職に付けたのが、当時の海軍首脳山本権兵衛。
その明治天皇に奏上した理由ですが『東郷平八郎という男は運の良い男です』だったとか。その運の良さのエピソードはこんなにありました。

200px-Togo_in_Europe.jpg 運のよさ1〜敵の砲弾がゼロ%の命中率。東郷の撃った砲弾は百発百中。
 東郷平八郎は若い頃に戊辰戦争時の日本人同士の初の軍艦同士の海戦に参加しています(阿波沖海戦)。

 榎本武揚率いる開陽丸の放った砲弾が全弾外れる中、東郷の撃った砲弾3発が全弾命中するという運の良さを発揮。その数、敵方は100中命中率0%で、東郷は3発中全弾命中の100%だったとか(文化放送『武田鉄矢・今朝の三枚おろし』より)。驚きですよね。


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手前が東郷平八郎たちの春日丸


運のよさ2〜宮古湾海戦でまたしても全弾命中させ土方歳三を撤退させる
 
その後、東郷たちの船は、宮古湾で再び幕府軍の軍艦と一戦交えることになるのですが、今度は土方歳三率いる回天丸の奇襲です、ここでも東郷の放った砲弾が回天丸に全弾命中し、土方歳三は撤退します。


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春日丸の乗員たち。赤矢印が東郷平八郎。イケメンですな。


運のよさ3〜西郷隆盛の西南戦争に参加できなかった。

 明治維新後は、東郷平八郎は、英国へ留学することを希望します。この留学を斡旋してくれたのが西郷隆盛でした。しかし、西郷隆盛はその後、西南戦争を起こし、多くの仲間と共に亡くなります。西郷を信奉していた東郷は留学していなければ間違いなくこの西南戦争に参加していたことになりますので、もしかするとここで戦死していたかもしれません。

東郷平八郎自身も「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下で戦っていただろう。」と語っています。

運の強さ〜その4 バルチック艦隊の進路の読みが的中
 その後も函館戦争、日清戦争と激戦を経験することになるのですが、彼は傷ひとつ負いませんでした。こういうこともあって東郷は周囲からも運が強い男と言われるようになります。そしてついに日露戦争時に日本の国運を賭けた連合艦隊司令長官になります。
 相手はロシアのバルチック艦隊。アジアの戦場に参加してくれば日本の兵力の倍になり、圧倒的に日本が不利になります。正に国難。

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旗艦「三笠」の上の東郷平八郎


 どのコースから来るのかも分からないのですが、これも見事予測コースを的中させ、その後の大勝利へと導くことになるのです。彼の運の良さは日本国全体にも影響を与えました。




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有名なT字戦法・別名トーゴーターン




 東郷平八郎は昭和9年に死去し、国葬も盛大に行われ、『東郷神社』に神として祭られることになります。
 この僅か10年後に日本は敗戦し、彼の連合艦隊も消滅してしまうのですが、悲劇的な結末を見ずにこの世を去ったことも彼の運の良さを物語っているのではないかと良かったのかと思うのです。
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東郷神社


 

◆ツイていなかった山本五十六

 さて、今度は同じ海軍の山本五十六について。時代は30年ほど経過し第二次世界大戦(太平洋戦争)の第26,27代連合艦隊司令長官になった方です。
 
真珠湾奇襲攻撃を立案した人で有名ですね。このひとのお人柄は人格者でありましたが、実は、根っからのギャンブラーでもあったそうで。「俺は海軍を引退したらモナコでポーカーやって暮すんだ」とよく言っていたそうです(^^)

◆日本海海戦で、自軍の砲弾で負傷



 さっそくですが、運が悪いところを。日露戦争に少尉候補生で装甲巡洋艦「日進」で参戦し、東郷平八郎配下の日本海海戦に参加するものの、砲弾の炸裂により、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負ってしまいます。敵方の砲弾によるものとされていますが、実は「日進」の前部砲塔における砲身内早発である可能性が指摘されています。かたや甲板に出て指揮をとっていた東郷平八郎は無傷でした。




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◆退官間際で戦争に突入
 さて、その後は順調に海軍を勤め上げるのですが、あと2年で退官ということで、最後に司令長官を務めることになるのです。2年も司令長官を勤めれば引退できるので、「さぁ、老後はモナコが待っているぜ」という時、
司令長官に就任したその日になんとドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発。世界大戦が始まってしまうのです。うーん、なんとも運が悪い。

◆自らが発案した真珠湾攻撃で正反対の結果に
 山本五十六は、頭もよく先見の明もあったので、日本がアメリカと戦争をすると絶対に負けるということが分かっていました。なので、宣戦布告通告と同時に、真珠湾攻撃短期決戦を行い、アメリカの出鼻をくじき戦意を喪失させることを計画します。
 反対意見が多い中、彼のギャンブラー精神が功を奏したのか、真珠湾攻撃作戦が決まります。攻撃の結果は大成功に終わりますが、なんと、外交官のミスで攻撃後に宣戦布告通知がアメリカに渡り、かえってアメリカ国民の激怒を買い、開戦士気が高まることに。これも
見事な運の悪さですね。
 山本五十六は、他の海軍軍人の中では、冷静に現状を分析して物事を長期スパンで考える博識を備えた優秀な軍人でした・・・しかしギャンブラーとしては致命的な欠点がありました。とにかく運が悪い(;^ω^)

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◆ミッドウェーの判断で虎の子の空母が4隻喪失

 
その後のミッドウェー海戦では、爆弾を積み替えている空母の上に奇襲を受け、虎の子の空母4隻を失うという運の悪さ。半年間は暴れてみせると自らの予言通りの半年後の出来事でした。
 山本五十六を見ているとどんなに頭が良く、的確に物事に対処しても運が悪いとやばいなぁと思います。
 

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◆運を大事にした東郷平八郎と、ギャンブルに使った山本五十六
 この二人の差は一体何なんなんでしょうか・・・・。
 
東郷平八郎は、毎日必ず同じ道を通るようにしていたとのことですが、それは、その日の気分で道を変えることで、何かが生じると運が出て来る場面になるので「運を余計なことに使いたくない」という理由だったそうです。
 この点で、生粋のギャンブル好きだった連合艦隊司令長官の山本五十六とは好対照だと思います。
運を戦の方に回さなかったツケが回ってきた?まさかだと思いますが(;^ω^)

 個人的には時代の流れとか、天の意思のようなものがあって、それに抗うと何をやってもダメのような気がしてしまいます。
 土方歳三の幕府軍しかり、第二次世界大戦の日本軍しかりです。
 その天意に反する役割を演じることになった方々には本当にお気の毒と言うしかありませんが・・・。


 <関連記事>
→【5月27日】バルチック艦隊撃破!日本海海戦
→【4月18日】山本五十六大将の戦死の日

本日は死者の日。煉獄という世界が生まれた訳

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煉獄からの救済の想像図(Wikipedia)

 本日11月2日「死者の日です。ドキッとするネーミング・・・。海外の記念日で別の名を万霊節(ばんれいせつ)といい、キリスト教では全ての死者の魂のために祈りを捧げる日となっています。

 ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(信仰を持って逝った人、全ての記念日)と呼ぶそうで。

 死者のために祈るという発想自体は古代からあったそうですが、キリスト教の歴史の中で「死者の日」というものを取り入れたのはクリュニー修道院の院長オディロという人であると言われています。

 かつてカトリックでは、「人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなる」という考え方がありました。
 死者の日はこのような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格があります。


「煉獄」という概念

 でも、新約聖書には
煉獄という言葉自体はありません。
 なぜ、このような考え方が出てきたかというと、ゲルマン人への伝道の際に出てきたという説があります。

 単純に言うならば、当時の布教の教えは「イエスを信じるものは天国へ。信じないものは地獄へ行く」という内容であり、イエス以前に生まれた人々は地獄に行かざるおえませんでした。
 現在ではドイツ全体の守護聖人になっている「
ボニファティウス」という伝道師もゲルマン人の族長に向かってそう言っています。先祖崇拝の信仰の強い当時のゲルマン人たちは、自分たちの先祖が地獄に落ちていると言われて激怒して、キリスト教を迫害します。
 自分たちは新しい宗教で救われるが、先祖たちは地獄に行くという教えは受け入れられない教えでありました。
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トールのオークの倒伏を見るボニファティウス

 ゲルマンの神であるトールに、もしこの木が「聖なる」ものであるならば自らに雷を落とせとトールに呼びかけたといいます。

 このボニファティウスはそういう理由もあってか、後に殉教しますし、この問題は各地で起こりローマ教皇庁にも届いていました。
 当時の教皇
グレゴリー1世は迷信的なものを省けばあとは構わないという解釈の仕方を指示していましたが、それだけに止まらず、もう一歩踏み込んで、「煉獄」という考え方が出てきました。

 煉獄とは「イエス以前やキリスト教の布教に間に合わずに死んだ魂は「煉獄」という天国と地獄の中間のような所に一時的にいて、子孫がキリスト教に改宗して先祖の霊に祈れば、その先祖も煉獄から天国へ行けると」いう考え方です。
 この教えが出てきてからは一気に改宗するようになったと言われています。(渡部昇一著「理想的日本人」参照)
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地獄でもない、天国でもない煉獄という世界。

 後に、この教えを利用し「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」という免罪符が出回ることになり、マルチン・ルターの宗教改革の運動のきっかけにもなります。
 ですので、公式に「煉獄」という教義を確立した1431年以降のカトリック教会では「煉獄」を教義として取り入れましたが、それ以前に分かれた「正教会」やプロテスタントでは「煉獄」の教義を認めていません。しかし、「死者の日」自体はそれぞれの地方の習慣であるようです。

 死者のために祈るという「死者の日」は、単なる教会暦の祝い日という枠を超えて人々の文化に根付いていたのでしょうね。人間としては当然の気持ちであると思います。
 日本のお盆やお彼岸とはどう違うのでしょうか。心情的には同じものなのかもしれませんね。
 死んだ人たちの魂はどこに居るのか、自分たちの世界とどう関わっているのか。世界でも古今東西共通した関心ごとであると思います。

 
 

ドイツの敗戦を予言したフランス軍兵士

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 第一次世界対戦が始まって間もなくの頃、1914年の8月、あるフランス人兵士がドイツ軍に捕まり尋問を受けました。その記録の内容は後にミュンヘン近くの修道院で発見、保管されていましたが、更に研究者の目に触れることになります。

 注目すべきはその尋問内容。このフランス人兵士は予言のようなものを口にしていたのです。この書籍にかかれていることを幾つか紹介してみましょう。

世にも不思議な偶然の一致 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)からの引用です


第一次世界大戦の行方
◯「この戦争はドイツ軍にとってみれば負けたも同然だ。しかしあと5年は続くだろう。」
 
 この記録が取られた時から4年と4ヶ月後の1918年11月に戦争は終結しました。


戦争後の恐慌

◯ 「ドイツでは終戦後、革命が何度も起こる」

 
 実際にドイツでは多くの動乱が発生。

◯「人々がお金を窓からばら撒くが、それを誰も拾わない時代がくる」


 終戦後の大インフレを予言したものと思われます。ドイツ・マルクの価値は急落。実際にただの紙切れ同然となった紙幣を窓から投げ捨てる事件も発生しています。

ヒトラーの予言?
◯「下層階級から一人の男が台頭し、人民は言論の自由を奪われ、法と正義も失われる。そのため、人々はわれを忘れて、野蛮な行為を行うようになるだろう」

 これはアドルフ・ヒトラーのことでしょう。彼らナチス・ドイツが行った行為は上記の予言そのものです。

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第二次世界大戦の始まりと集結
◯「1938年にはドイツが新たな戦争を起こす」

 第二次世界大戦は、1939年9月ですが、この前の年1938年にナチス・ドイツはチェコを侵略しこれが大戦への引き金になっています。

◯「4と5の数字が並ぶ年にドイツの侵略は行き詰まり、二度の世界大戦もここで終結するし、指導者とそのマークは消え失せ、ドイツは敗北の憂き目を見る」

 第二次世界大戦が終結した年は1945年でした。ナチス・ドイツの「鉤十字」のマークもここで消え失せることになります。


ドイツのその後
◯「その結果としてドイツは二分されてしまう。しかも敵国同士がにらみ合う時代がくる」

 もちろん東西ドイツの事と米ソの冷戦時代のことを予言していると思われます。

◯「イギリスはヨーロッパでも最も貧しい国になる。ドイツは最も勤勉な国民を持つ。そしてよく働く国民の民が、世界を制することになるだろう」

 戦勝国であったイギリスはその後没落、ドイツは工業国として発展していきました。気になるのは日本のことを指しているのか?という内容もありますね。


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 このフランス人兵士とは一体何者なのでしょうか?1914年の当時の世界情勢ではここまで予言するのは不可能に近いはずです。これはドイツ軍の記録であるため(ドイツ軍の記録の正確さは折り紙つき)、信憑性も高いと思われますし、これを記録した紙と鉛筆は1914年のものに間違いなく、加筆、修正の形跡は一切ないことが、科学的調査で判明しているそうです。

 この情報の更に詳しいことが知りたいですね。気になります。